写楽の謎に迫る(前編)
版画ではなく肉筆画である。
扇子用に描がかれたものだが、人物の耳の描き方などから写楽の真筆であると鑑定されている。
そしてこの肉筆画が、これまで謎であった写楽の人物像を解明する手がかりとなった。
この写楽の謎に迫るスペシャル番組が、5/8にNHKスペシャルの地上波と、5/11、5/12のBSで放送された。
両番組とも内容は若干異なるものの、ほぼ同じ推理、結論を出している
写楽が何者であったかは、これまで3つの説が有力であった。
1.他の有名画家
2.版元の蔦屋重三郎
3.阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛
まず他の有名画家であるが、葛飾北斎、喜多川歌麿をはじめさまざまな有名画家が、実は写楽を名乗ったのではないかと言われている。
特に北斎においては、「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の波の形が、写楽の代表作である「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」の手に酷似しているように見える。
さらに北斎はその生涯で何度も筆名を変更しているので、写楽もその一つだったのではないかという説が根強く信じられていた。
しかし今回の肉筆画の調査で、筆致がどの画家とも違う事が判明した。
版画の場合、輪郭線は彫師が削るために詳細がわからなくなるのだが、肉筆画では細かい筆致まで確認できる。
それによると写楽の筆致は、よく言えば繊細、悪く言えば迷いが多く、一気に「スッ」と描いた物ではないらしい。
たどたどしく線を辿りながら、ゆっくりと描いた筆致になっている。
この事から、「1」の他の有名画家説は消えた。
続いて蔦屋重三郎説だ。
蔦屋重三郎は蔦唐丸という狂歌名を持ち、出版した本に自身で挿絵を描いてもいる。
しかし、こちらも物理的に否定される事がわかった。
実は三重県津市の石水博物館にも写楽のものとおぼしき肉筆画があり、この春の調査でこちらも写楽の真筆である事が判明した。
ギリシャの作品と同じ筆致である事が確認されたのである。
老人と人形、それに豊国の歌舞伎絵が描かれているのだが、この豊国の歌舞伎絵の制作年代を考えると、石水博物館の肉筆画は蔦屋重三郎の死後に描かれている物である事がわかると言う。
そうなると残りは、斎藤十郎兵衛説である。
上記の2説に比べると、一般にはこの斎藤十郎兵衛説はあまり聞かない。
この斎藤十郎兵衛説の根拠となったのが、斎藤月岑の記した「浮世絵類考」である。
ここに、東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛と記されているのだ。
しかしこの「浮世絵類考」が出版されたのが、写楽の死後50年ほど経ってからだった。
そしてこれまでは、斎藤十郎兵衛という人物の記録がほとんどわからないし、一般の能役者にこんな凄い絵が描けるのかという疑問もあり、この記述は間違いだろうと考えられていた。
だが十郎兵衛をよくよく調べると、八丁堀に住んでいた能役者である事がわかる。
そしてこの八丁堀には加藤千蔭という国学者が住んでいたのだが、本居宣長の著作に加藤千蔭と蔦屋重三郎が親しかったと書かれている。
これで斎藤十郎兵衛と蔦屋重三郎がつながった。
「とうしゅうさい」も「さいとうじゅう」ろべえのアナグラムではないかと推測される。
研究者たちの間でも、現在の定説は写楽=斎藤十郎兵衛と考えられているらしい。
ただし、なぜ写楽が10ヶ月で活躍をやめてしまったのかは謎である。
そこにも、さまざまな憶測が流れている。

