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「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(第2回)

第2回目の放送では、陸軍の暴走に焦点を当てていた。
この陸軍の暴走の要因は、端的に言ってしまうと権力・派閥争いであった。

第一次世界大戦後、陸軍士官永田鉄山はドイツの保養地バーデンバーデンで、数名の士官と密談を行っていた。
これが一夕会の始まりとなった、「バーデン・バーデンの密約」である。

ヨーロッパの戦線で、国と国との総力戦を目の当たりにしていた青年将校たちは、当時の軍部の在り方に疑問を抱いていた。
陸軍を仕切っていたのは元老山形有朋であるが、青年将校たちは、この元老山形の仕切る陸軍の古いしきたりを修正しなければならないと考えた。
彼らが考えたのは、人事による軍部の掌握である。
要職に一夕会のメンバーを配置することにより、少しずつ発言力を強め、軍内部での権力を握って行った。
そして満州の関東軍司令部に送られた一夕会のメンバー、板垣征四郎と石原莞爾によって、満州事変が起こされる。
これは陸軍中枢指導部の知るところではなく、関東軍の独断による暴走であった。
しかしすでに昨日の日記で書いたように、日本国民がこれを支持してしまった。
満州事変に関与する将校が帰国する際には、日本全体が英雄として迎え入れてしまったのだ。
指導部の意向を無視した暴走であっても、もう彼らの行為を追認するほかなかったのだ。

これは私の推測であるが、この状況は大袈裟な表現ではなく事実にかなり近い物と思われる。
当時不景気に悩まされた日本では職に就く事さえ困難で、食べるために軍に入る者が多かったはずだ。
もちろん、是非を問う者などいなかったであろう。
自分が食べられて、家族に仕送りもできるかもしれない。
同様に不景気である現在の状況から考えると、当時そう考える者が多かったのは当然とも思える。
当時の軍隊は、国民から嫌われていた存在ではなかったのだろう。

すでに軍内部での巨大勢力となっていた一夕会であったが、メンバーの考えが統一されていたわけではなかった。
満州支配に重きを置く永田鉄山に対し、ロシア駐留経験がありソ連の恐ろしさを知る小畑敏四郎は、ソ連の軍備が整う前に叩くべきだと主張する。
永田鉄山と小畑敏四郎は、一夕会発足の契機となった「バーデン・バーデンの密約」のメンバーであるが、この二人の対立がそのまま一夕会の中で強硬派と統制派の派閥を生みだし、やがて陸軍全体を巻き込んだ激しい派閥抗争へと繋がっていく。
そしてこの派閥抗争によって、永田の統制派による強硬派の排除が行われた。
強硬派のリーダー小畑も失脚する。
もしこのまま永田による軍部の支配が続いていたら、あるいは第二次世界大戦は避けられたかもしれない。
永田の腹心であった鈴木貞一は、戦後に語っている。
永田は「アメリカとの戦争などもってのほか、アルマゲドンだ」と言っていたそうだ。

しかしその頼みの綱の永田は1935年(昭和10年)、対立する強硬派の青年将校によって暗殺されてしまった。
統制派で永田の後を継いだのが東條英機であった事が、世界中の不幸の始まりだったのかもしれない。
陸軍はリーダーを失い、百家争鳴の様を呈するようになった。

それでも統制派は必死に関東軍の暴走を止めようとする。
その一つの方法が、関東軍の隣に配置された天津軍の強化である。
軍を持って軍を制すと言う強硬手段に出た。
もはや陸軍の内ゲバである。

しかしこの天津軍の強化は、現地の中国人から見れば単なる支配の強化であり、結果的に排斥運動が高まることになった。
そしてこの混乱にさらに拍車をかけたのが、天津軍内にいた酒井隆という人物だ。
同期で一人だけ勲章を受けていなかった酒井は、大陸で殊勲を挙げようと意気込んでいた。
そして勝手に傀儡政権を立ち上げてしまう。
これ以降大陸では、「行動を起こして成功した者勝ち」と言う無秩序な状態が続く事になった。

この後中国にはいくつもの軍部が置かれることになるが、それらは歴代の陸軍大臣経験者の天下りのポジションとなっていった。
やがて大陸の軍部は総勢100万を超す大きさになる。
アメリカからの要請もあり、陸軍中枢は肥大化しすぎた軍部の縮小をはかろうとする。
大陸の軍部経験者を呼びもどして陸軍の要職に就け、各軍部に縮小の説得をさせたのだ。
しかし彼らは自らの経験もあり、なかなか大陸軍部を説得する事ができない。
現場で責任者として任された者は、大局よりも自分の部隊の心配をしてしまうものだ。
中には自分の功績や私利私欲だけではなく、部下の生活の心配をした士官もいたのかもしれない。
いずれにしろ、この説得作戦は空振りに終わり、軍部の縮小計画は失敗する。

当時陸軍のトップに立っていた東條英機も、統制派でありながらこの軍部縮小には反対の立場であった。
日米開戦直前の日米交渉に関し、当時首相であった近衛文麿は閣議で「大陸から撤兵すれば交渉妥結(戦争回避)の可能性がある」と告げた。
しかしこれに強硬に反対したのが東條英機であった。
撤兵をしてまで英米に屈する事はない、開戦であると考えていたのである。

近衛文麿内閣総辞職後、当時の大臣らは次の首相に東條英機を選ぶ。
これは開戦に踏み切ると言う事ではなく、天皇を心から敬愛している東條に、日米開戦を危惧する昭和天皇の意向を聞かせてなんとか日米交渉をまとめさせようとしたのだ。
同時に東條は、日米交渉がうまく進んだ時に予想される、軍部のクーデターを抑えられる人物でもあった。
また、万一最悪のシナリオで開戦になったときも、陸軍、海軍双方をまとめる力がある、とも思われていた。

しかしシナリオは、最悪の選択へと進んでしまったのだ。

この第二回も非常に興味深く番組を見た。
第三回は今週末の日曜日、2/27である。
テーマは「"熱狂”はこうして作られた」で、当時のマスメディアの功罪にスポットを当てるようだ。
かなり楽しみな内容である。
by ksato1 | 2011-02-22 00:01 | 日記 | Comments(0)