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日本サッカーの50年史(2)

「ドーハの悲劇」の同年からJリーグがスタートしていが、スタート元年から大物スターが大挙来日した。
若手の選手は始めから、世界レベルのプレイヤーと試合をすることになる。
技術はどんどんレベルが上がる。
ユースから海外遠征した選手たちは、外国相手にも物おじしない。
その結果が、アトランタ五輪での「マイアミの奇跡」である。

続くフランスW杯予選では、このアトランタ五輪組とドーハ組が入り混じって代表を構成していた。
中田をはじめ、五輪組はピッチの上では先輩も呼び捨てだ。
今でこそ当たり前の事だが、ドーハ以前はそうではなかった。
変わっていく日本代表。
予選第3戦の韓国戦が、大きなターニングポイントとなった。
ホームに韓国を迎え、リードを奪う日本。
W杯出場のためには、韓国は絶対に乗り越えなければならない大きな壁だ。
選手はもう1点取るために、前掛かりで攻めようとする。
しかしベンチの判断は違った。
FWのロペスに変えて、DFの秋田の投入。
守備を厚くする戦術だったがマークする選手が最初の作戦と異なってしまったため、DF陣は混乱した。
さらにトップにいたロペスが消えたことで、韓国はDFラインを押し上げやすくなる。
瞬く間に逆転され、日本は敗北を喫した。

その後日本代表は中央アジア遠征に出るが、次のカザフスタン戦を終了間際で同点にされたところで加茂監督は更迭、岡ちゃんが監督に就任した。
その夜自分達だけでMTGを行う選手たち。
次のウズベキスタン戦から奇跡の試合が続き、日本はジョホールバルでの第三代表決定戦の権利を得る。
そこでの死闘は今でも語り草だが、この時、イランはフルメンバーでは闘っていない。
たしかそのときは、主力の一人のバゲリが出場停止、マハダ・ビキアも体調を崩していたと記憶している。
アジジ、ダエイに加えてこの二人が本調子で出場していたら、おそらく日本は太刀打ちできなかっただろう。
しかしいくつもの奇跡が重なって、日本はフランスW杯に初出場する。
だが本大会では、実力の違いを完膚なきまでに見せつけられる。
ゴン中山が歴史的ゴールをあげるものの、勝ち点はゼロだった。

続く日韓W杯で指揮を執ったのは、トルシエだ。
徹底的な管理を敷くトルシエは、フル代表だけではなくすべての世代の監督を兼務した。
自分と言う共通の敵を作り、チームをまとめあげるのがトルシエ流だ。
そしてその結果、ユース世代は世界2位、日韓W杯でもベスト16の結果を残した。

その後を継いだ世界のジーコは、トルシエのやり方を否定した。
ブラジル人のジーコが目指すサッカーは、自分たちで考えるサッカー、いわゆるクリエイティブなサッカーだ。
さらにジーコは日本版黄金のカルテットを作り、そこに固執する。
その結果、スタメンと控え選手の間に溝ができてしまった。
W杯初戦のオーストラリア戦では、名称ヒディングの策略にハマり、逆転負けを喫す。
序盤でDFの坪井が故障し、交代枠を使っていたのも痛かった。
そこから代表はリズムを崩し、1分2敗で予選リーグ敗退となる。

続く監督はオシムである。
オシムはすでに日本でも、Jリーグで実績を挙げていた。
そして代表でも、ヨーロッパ型の組織的なサッカーを提唱する。
難しいサッカーにも答える選手たち。
すべてが上手く行きそうな矢先、オシムが病魔に倒れる。
その後任は、またしても岡ちゃんだ。
岡ちゃんは当初攻撃的なサッカーで、アジア予選を勝ち抜く。
しかしW杯直前のテストマッチで惨敗し、守備中心のサッカーに転向する。
迷いの中、選手だけではなく誰もが不安を感じていた。
しかし初戦でカメルーンを接戦の末降すと、日本は波に乗ってベスト16の結果を残した。

今、日本の課題はジュニアおよびユース世代の強化である。
ユースで2位となった黄金世代は、年間のうち半分近くの日数を海外遠征にかけた。
そしてトルシエは選手を過保護にする事はなく、アフリカのキャンプ地で腐りかけたバナナを自ら食べ、選手にも食べるように命じた。
そうする事により、技術と精神面を鍛えたのだ。
その後の世代は、日本の経済環境もあり年間の海外遠征はせいぜい数十日になってしまった。
その結果、ここ何回かはユースのアジア予選も勝ちぬけていない。
50年で世界と肩を並べるまでに来た日本サッカーがさらなる飛躍を遂げるためには、ユース世代からの進化が必要なのだ。

2022年がカタールになっちゃったから、日本での開催実現は早くても2034年くらい。
でもそのときでもまだベスト4がやっとだろうね。
日本がW杯で優勝を目指せるようになるのは、やっぱり後50年くらいはかかるのかもしれない。
by ksato1 | 2010-12-10 00:05 | 日記 | Comments(0)