NHKで放送されたドラマ「テミスの不確かな法廷」が素晴らしかった。
ドラマの終盤は再審請求がテーマだったが、つい最近、42年前に滋賀県で起きた強盗殺人事件で、服役中に死亡した男性の再審請求が認められた事もあり、注目されていた。
そしてこのドラマが、飯塚事件の再審の扉を開くきっかけになるかもしれないと思った。
主人公の安堂清春(松山ケンイチ)は子供の頃にASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)の診断を受けるが、その事を隠して前橋地方裁判所の特例判事補の職に就いている。
突飛な言動が多いため同僚からも奇異な目で見られるが、それでも真摯に判事の職に向き合っていた。
原作通りではないようだがドラマは8話構成で、各話ごとのエピソードと並行して25年前の前橋一家殺人事件が明らかになっていく。
ネタバレになるがこの前橋事件は冤罪で、検察は犯人の死刑執行の後で冤罪であることを知る。
そしてその事件の検事だったのが、現在は最高検察庁の次長検事で安堂清春の実父でもある結城(小木茂光)だった。
前橋事件の犯人として死刑執行された秋葉の娘である吉沢亜紀(齋藤飛鳥)が再審請求を起こし、当時の情報提供が公示される。
多数集まった情報の中で、一見事件とは無関係のような匿名の情報があり、そこに注目したのは安藤だけだった。
ASDだからこそ、一見無関係と思われる情報に注目できたと言える。
そしてこの匿名情報を送ってきたのが、当時の担当検事の結城だった。
結城は立場上、前橋事件が冤罪であることを公言することはできなかったが、良心の呵責から匿名でヒントとなる情報を送っていたのである。
この冤罪に対する、検察の葛藤の描き方が素晴らしい。
当事者の結城はもちろん、再審請求の担当検事となった古川(山崎樹範)は、過去に父の汚名を晴らしてくれた結城に憧れて検事となり、検事と言う職を超えて結城の事を信頼していた。
しかし次々と証拠が提示され、その信頼も崩れていく。
それでも古川は結城を信頼し、そして司法制度を崩壊させないために、「軽蔑されてもかまわない」と言って検察側の証拠提出を拒否し、再審請求を否定する立場を貫こうとする。
死刑反対派には、人が人を裁くこと自体が恐ろしい事だと言う人もいるが、もしそうであれば、それは死刑だけではなくすべての判決に対して当てはまることとなる。
それはイコール、司法制度自体を否定することだ。
ただ一方で、人の判断に間違いがある事も事実だ。
最終話でエリート判事補の落合(恒松祐里)が、「『10人の真犯人を逃しても一人の無辜を罰するなかれ』と言う言葉があるが、自分はその言葉が嫌いだ、無実と無罪は違うが無実と無罪が同じであってほしい、そうあるべきです」と言う。
この言葉は本当に重い。
その少し前、結城が葛藤している事を知った部長判事の門倉(遠藤憲一)が「俺だったら、どうしただろうな」とポツリと言うが、この言葉も短いが非常に重い。
人間の判断に絶対はありえないが、司法に携わる者は絶対に正しい判断をしなければならない、しかしもし判断を間違えたときにどういう行動をすればいいのか。
再審請求の判決の法廷で安藤は、「司法が犯した罪(冤罪)、私は怖いです。怖くて怖くて仕方ありません」と言った。
おそらくそれは、判事だけではなく司法に携わる者すべての本音なのだと思う。
しかしその本音は、決して公に口にしてはならない言葉でもある。
司法関係者は、常にプレッシャーと闘っているのかもしれない。
ラストで門倉が、「再審請求は開かずの扉であってはならない、救済の扉でなければならない」と言う。
まさしくその通りで、そもそも再審請求に即時抗告や特別抗告があること自体が不思議だ。
検察が判決に間違いがなかったと考えているのであれば、再審でも堂々と裁判で争えばいいのだ。
再審を開始するかどうかで、争う必要はない。
しかし裁判所が再審を認める事がイコール、判決を覆すだけの新しい証拠が認められたと言う事であり、検察はその時点でかなり不利な状況に追い込まれている。
これまで日本の裁判で再審が認められた例そのものが多くはないと思うが、おそらく再審で判決が覆らなかったという事はないのではないか。
だが、再審の結果冤罪があきらかになっても、それが新たなる不幸につながるかもしれない。
冤罪を掛けられた者は長い時間を取り上げられ、真犯人は犯行後からずっと自由に生活しており被害者は納得が行かないだろう。
金銭で賠償しきれるものではなく、誰もその責任を取る事はできない。
その事を考えさせられるドラマだった。
日本では多くの人が「法律は人を幸せにするものだ」と勘違いをしているが、そうではない。
法律とは、価値観の異なる多数の人が構成するコミュニティで、一番同意が多くなるように導くためのツールである。
裁判で争った結果、どちらかに幸せな判決が出れば、それは相手には不幸せな判決という事になる。
少なくとも民事裁判は、判決で必ず幸せと不幸せを同時に生み出している。
ドラマでは、 主役の松山ケンイチの演技が素晴らしかったが、同様に脇役の演技も素晴らしかった。
判事と言う職に信念と誇りを持つ落合の恒松祐里と、一度は東京で弁護士の仕事に挫折しながら安藤に感化される小野崎の鳴海唯の二人が、非常にいい演技をしていた。
そして門倉の遠藤憲一は、途中まではサラリーマン的な中間管理職の悲哀の役柄だったが、ラストでは部長判事として光っていた。
悪役顔の遠藤憲一だが、最近はこういう一見カッコ悪いが締めるところはきっちり締めるリーダー役が多くなっている気がする。
このドラマで思い出されるのが、現在、日本で一番注目されている冤罪事件の飯塚事件だ。
これまで日本では、受刑者の死刑執行後に再審が認められたケースはない。
冒頭で例に挙げた42年前の事件は死刑執行ではなく、受刑者が服役中に病死しているため再審が認められたと思われる。
1992年に発生した飯塚事件も、2回目の再審請求で新たな目撃証言と、判決時に採用された目撃証言について、目撃者本人が「はっきりしない」と警察に証言したのに聞き入れてもらえなかったと証言しており、再審が認められるのではないかと期待が高まった。
しかし福岡地裁は請求を棄却、即時抗告も福岡高裁が棄却した。
地元のメディアにはこの事件を長年追いかける記者が何人もいるが、それも冤罪の可能性が高いと考えているからだろう。
ドラマを見て、まさに飯塚事件の司法関係者が同様の葛藤をしているのではないかと思った。
飯塚事件のほかにも、科学の進歩が寄与して今後は冤罪事件の再審が増えると思われる。
そのたびごとに、このドラマが再注目されるような気がする。
それほど秀逸なドラマであった。
#
by ksato1
| 2026-03-15 00:00
| 日記
|
Comments(0)

