「沈黙 -サイレンス-」<自由部門>

テーマが江戸初期に弾圧されたキリスト教徒の話で、上映時間は160分。
かなり「重そうな映画」と思い、1カ月くらい前までは観に行こうかどうか、かなり迷っていた。
しかし年末にBSで放送された本作のドキュメンタリーを見て非常に興味がわき、優先順位を上げて観に行く事にした。

ロドリゲス神父とガルペ神父はポルトガルでヴァリニャーノ神父から、日本で布教をしていたかつての恩師フェレイラ神父が棄教したと聞く。
にわかに信じられない二人は、すでにキリシタン追放令が発令していた日本へ向かう事を決意する。
マカオで出会ったキチジロー(窪塚洋介)に水先案内を頼み、二人は隠れキリシタンが住むトモギ村に入った。

すでに神父が日本からほとんどいなくなり、信徒たちは独自の方法で信仰を続けていた。
しかしそれは本来の信仰の姿ではなく、信徒たちもそれはわかっていた。
神父の出現によりトモギ村の信徒たちは喜ぶものの、キリシタン弾圧は非常に厳しく行われており、二人はトモギ村から動く事ができなかった。
そんなある日、五島から来たと言う信徒が二人を訪ねてくる。
五島はキチジローの生まれ故郷で、彼から神父の話を聞いたと言うのだ。
ぜひ五島にも来てほしいと請われ、ロドリゲスが五島に行く事となった。
五島でも来訪を喜ばれたが、ロドリゲスが一番気になったのはキチジローの心の闇だった。
彼もかつては隠れキリシタンであったが、拷問に恐れをなして棄教していた。
しかし彼以外の彼の家族は全員信教を貫き、生きたまま焼かれると言う責め苦を受けていた。
目の前で家族が焼かれる姿が記憶から消えず、キチジローは自分を責めていた。
彼の告悔を聞きながら、自分が日本にやってきた意味があったとロドリゲスは再認識する。

ロドリゲスがトモギ村に戻ると、統治している役人が検知に来ていた。
役人は村長であるイチゾウ(笈田ヨシ)をキリシタンと決めつけ、数日後までにその他の者が名乗りでるか密告がなければ、イチゾウを含む4人を処刑すると通達した。
村人は誰を差し出すか揉め、やがて神父に村を出て行ってもらおうという話にまでなる。
苦しむ村人たちを見て、ロドリゲスはなぜ信徒が苦しまなければならないのかを疑問に感じ始める。

選ばれた4人のうちキチジローは、十字架に唾を吐いて放免となる。
それ以外の3人は処刑されるのだが、ロドリゲスとガルペはその一部始終を影から見守っていた。
その後ロドリゲスはキチジローの裏切りを受け役人に捕まってしまう。
目の前で何人も責め苦で処刑されるのを見て、ロドリゲスは神に慈悲を求めるが、神は常に沈黙したままだった。

社会科の教員免許を持ちながら、キリシタンの弾圧については本当に教科書レベルの事しか知らなかったが、この映画でいろいろな事を初めて知った。
例えばフェレイラ神父の棄教は、日本ではキリスト教信者でも知っている人は少ないだろう。
しかし歴史的見地で言えば、欧米ではフェレイラ神父の棄教は日本での布教のターニングポイントとして、大きな意味を持っているらしい。
その事を、BSの特番で初めて知った。
キリシタンの弾圧についても、追放令が出てから明治維新まで常に厳しい弾圧が続いていたのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
役人自身もやりたい仕事ではなく、形だけ踏み絵を踏んだら放免と言うパターンも多かったようである。
そもそもキリシタン追放令の元となったのは、一向一揆のように信徒が結束して幕府に反乱を起こす、と言う懸念から出あった。
しかし宣教する神父さえいなくなれば結束する事もないので、神父がいなくなった後は形だけの踏み絵さえクリアすれば、抜き打ちで家の中まで厳しく詮索されるような事もほとんどなかったようだ。
日本でキリシタンに厳しい責め苦が行われていたのは、日本に神父が存在した時までのようである。
役人もできれば拷問や処刑などは避けたいので、作品中でも形だけ踏めばよい、と言うセリフもあった。
ただ、神父が神の与えた試練に耐える事が信教だと教えていたので、踏み絵すら行えなかった信徒も多かったようだ。
これが宗教革命以降で、日本に布教に来た宣教師がカトリックの神父ではなく、プロテスタントの牧師であれば話は違ったのかもしれない。
命を落としても信心を守る、そうすれば永遠の天国が約束される、そういう教えを受けていたからこそ、キリシタンの弾圧は起きたのではないだろうか。
考え方としては、今のイスラム教徒のジハードに近いかもしれない。

役人の長である井上筑後守(イッセー尾形)は、この映画では説明はなかったが遠藤周作の原作ではかつて彼自身がキリシタンであったそうである。
その井上が4人の妾の話をもって、キリシタン追放令を説明するシーンは、なかなか説得力がある。
そしてフェレイラとロドリゲスが棄教した理由も、彼らが信徒を救おうとした事からなのだが、その部分も非常に説得力があった。

神は常に沈黙を守り、信じる者の信仰心に判断をゆだねている。
それはある意味、どの宗教でも同じなのかもしれない。
クライマックで、ロドリゲスが踏み絵のキリストと対話するシーンはとても印象深かった。
宗教とは本来厳格な教えを守る事が目的ではなく、どうすれば救われるかを考えるべきなのだろう。
しかし人間は弱い生き物なので、キチジローのように一度教えを破ればどんどん楽な方に逃げてしまう。
イスラム教のように、厳しい環境で広まった宗教の方が厳格である事を見ても、その事がわかる。

キリスト教を禁じた秀吉、家康の施策の背景やカトリックの布教の歴史など、新たにいろいろな事が知りたくなる映画だった。
そして篠田正浩版の「沈黙 -サイレンス-」も観てみたいと思った。


8.沈黙 -サイレンス-


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by ksato1 | 2017-01-27 23:56 | 映画 | Comments(2)

Commented by desire_san at 2017-02-13 09:24
こんにちは、
私も映画『沈黙-サイエンス』を見てきましたので、詳しい鑑賞レポートを読ませていただき、映画『沈黙-サイエンス』の感動が甦ってきました。信ずることの意味、人間撮って大切なものは何か、生きることの意味は何かについてじっくりと描いて、色々考えさせられました。江戸時代のキリスタン弾圧の時代を、キリスタンのみならず弾圧する側の井上筑後守や通辞など侍たちも飲み込んでいく巨大な蟻地獄のように描いているように感じました。

私も『沈黙-サイエンス』を観て、この映画の魅力と現代人はこの映画から何を学べるのかを整理してみました。読んでいただけると嬉しいです。ご意見・ご感想などコメントをいただけると感謝いたします。

Commented by ksato1 at 2017-02-13 14:36
desire_sanさん

コメント誠にありがとうございます。

サイト拝見いたしました。
「窪塚洋介の完全復活 」は非常に巧い表現ですね。
私も、この作品を読み解くにはキチジローがカギになっていると思います。

神がいるかどうかわかりませんが、もしいるとしても決して人を救ってくれるような存在ではなと思います。

宗教とは、心の底にある罪悪感を巧みに突いており、人は罪悪感に耐え切れずに許しを請うのだと思います。
許された人は教えを護り続けますが、中にはそれができな人もいる。
その、何度も教えを破る人を許さないのは神ではなく、人間である神父なり信者なのだと思います。

この作品ではキチジローは何度も教えを破りますが、教えを護った者は彼の目の前で責め殺されます。
私は、殺されることがわかっているのに信心を護り続ける事は、ある意味自殺だと思いますので、キチジローの行動こそが本来の神の教えではないのかと思います。

そして実は井上筑後守も心の底ではキリスト教を信じていて、自分のように幕府に対して従面背反することを村人に臨んでいたのではないかとも思います。

desire_sanさんの表現される「蟻地獄」でいえば、フェレイラ、ロドリゲス、キチジロー、そして井上筑後守に関しては、葛藤の末「蟻地獄」から抜け出すことができたんじゃないかという気もします。